私と聴覚障害~大学期
以前の記事(コレ↓)の続きです。
i-mustard.hateblo.jp(あらすじ)
社会科の教員免許がほしいけど推薦入試がなかった。そこで、姑息な手段として特別支援の聴覚言語障害教育コースに入りました。
□大学期
入学初日、コースの新入生を対象にしたオリエンテーションで、情報保障の活動に誘われました。情報保障というのは、聴覚障害のある人に対して、音情報を視覚的な手段で伝えることです。方法はこんな感じ。
http://www.pepnet-j.org/web/file/tipsheet/2016/10-iwata.pdf
同級生にも聴覚障害のある子がいたし、先輩にも聴覚障害のある方々がいました。大学としても聴覚障害学生の支援に力を入れていて、支援をするための専門部署もありました。オリエンテーションで話を聞いていて、「このコースに入ったのなら、この活動をしたほうがいいんだ」と考え、何の疑問も持たずに、活動を開始しました。
疑問も持ってないけど、そこまでの熱意もない。ただ、大学内でできるし、当時バイトを一生懸命するという考えもなかった私にとっては、「いい時間つぶしになるなぁ」くらいの感覚でした。
まさか、それが一生を決める一因になるなんてとても想像できなかったです。
私の大学では、情報保障はまず手書きの方法から学びます。この方法を学んで、ある程度の現場経験を積んだら、希望者はパソコンでの方法を学ぶことができました。そこで、私は情報保障にのめり込んでしまうのです。
要は、タイピングがちょっとだけ得意だったということ。中学生の頃にチャットで鍛えられたスキルがここで多いに役立ちました。タイピングが早いということは、それだけ多くの情報量を提示できるということ、つまり、人の話す早さについていける可能性があるということです。
手書きはどんなに頑張っても話の20%くらいしか文字にできないといいます。でもパソコンだったら、その限界を越えていける。より多くの情報を、よりタイムラグなく伝えられるのです。
それまでどうってことないと思っていた自分のスキルが、誰かの役に立つ。
これが私にとって変えがたい喜びだったのだと思います。もっと早く打ちたい、正確に打ちたい、ニュアンスもきちんと伝えたい。そんな思いで練習会に参加していました。全国規模のシンポジウムにも何度か参加して、もっと技術を高めようという思いもありました。
そのうちに、大学で支援する学生組織の代表を務めさせてもらい、そして震災を体験しました。
それまで支援する側だった自分が、全国の皆さんから支援してもらう側になり、そしてまた提供する立場にもなれる、という経験は、今思うと貴重なプロセスだったんだろうなぁと思います。
3.震災以降、多くの大学や機関から多大なご支援を頂いてきました。そんな皆様方にお会いできて、さらに「うちの大学でもやりたい」と、本学の取り組みを参考にして頂けたことで、僅かではありますが今までの恩返しが出来たかな、と思います。#pepj_sympo
— こより (@i_mustard) 2011年11月6日
そして、情報保障の活動にのめりこんでいくうちに、将来のビジョンも少し変わってきました。
大学にあった支援の専門部署には、2名の専任職員さんが配置されていました。たくさんいる聴覚障害学生のニーズを引き出し、さらに大勢いる支援学生にも細かく目を配り…。そういった様子を見ているうちに、「この仕事につけたら楽しいだろうなぁ」と思うようになりました。
そういった思いで、教育系大学を卒業しながらも教員にはならず、大学を卒業した私は茨城へと向かいます。
…といったところで、もう1500字ほど書いてしまいました。
茨城の4年間と実家に帰ってきての2年間があるので今日はこのあたりで。ありがとうございました。
「いつか笑える日が来るさ」を考える
どんな中にいても、希望を見出すことができるのは人間の強さだな、と思いました。
【病院ラジオ】
— NHK広報局 (@NHK_PR) 2018年8月18日
日曜の朝、再放送です。
サンドウィッチマンの2人が病院で、2日間だけの「手作りラジオ局」を開設。病気で入院、通院生活を送っている人たちの思いを、リクエスト曲にのせてお届けします。
19(日)午前9:00[総合]
▼2人のインタビュー&予告動画▼https://t.co/D7smtFfB8X
悲観して、やり場のない怒りを抱えて、絶望することもあるだろうけど、その中で明るさを見つけたり、将来を夢見たりする人達がいました。
病院にいる、あるいは通っている、いわゆる「患者」という共通項のある人達ですが、基本的に関わることは少ないと思います。私も歯科病棟に入院したことがあるけれど、同じ部屋にいる人とはほとんど話さなかったです。その家族同士もまた然り。
その中でラジオを媒介にして、似た境遇の人から話を聞く。双方向ではないけれど、セルフヘルプグループの役割を果たす番組でもあったのではないかと思います。それと、自分が今後受けるかもしれない手術を、すでに受けている人の話を聞くことは、モデルに触れることでもあったかもしれません。
なにより、本来のラジオではありえない、字幕がつくということ。ラジオの訥々とした感じをテレビで再現しつつ、そこに字幕がある。新しいテレビのあり方になればいいなぁと思いました。
私と聴覚障害~幼少期から大学受験期
今まで書いてこなかったのですが、書かないでソレに関する別の記事をアップするのもなぁ…と思い、今日は「私と聴覚障害」について、つれづれ綴っていきます。
はじめにお断りですが、私は聴覚障害の当事者ではありません。いろんな巡り会わせで、聴覚障害の人達と接する時間が一般の人より少し長いだけです。かと言って、「その程度かよ」「結局は外にいる人間じゃん」と思われると少し寂しいし悔しいのですが…。聴覚障害者のことを理解したいという気持ちを持っている人間だと思ってもらえれば嬉しいです。
さて、私と聴覚障害との接点を簡単に示すとこんな感じ。
(論文発表会のスライドより引用 笑)
□幼少期
実家の祖父は中途失聴者でした。つまり、日本語を獲得してからきこえなくなった人。
きっかけは詳しくは分からないのですが、どうやら失聴したのは小学生の頃らしい。補聴器をつけていれば1対1の会話には困らなかったけれど、お風呂に入っている祖父の背中に向かって話しかけた時、何も反応がなかったことが強烈な思い出です。
また、私はそこまで覚えていないのですが、母曰く、祖父はテレビを見る時には、近くに座っていたとのこと。日常生活でも聞きにくさはあったんだんだと思います。
最近になって、祖父が地域の寄り合いに参加するのを嫌っていた、という話も聞きました。たくさんの人がガヤガヤと話しあう声は、きっと祖父にとって聞きとりにくいしうるさいし、というしんどい空間だったんだろうと想像します。
そんな祖父がいたおかげで、きこえない人が私にとっては身近でした。ただ、その当時は祖父しかきこえない人を知らなかったし、その大変さも良く分かっていなかったです(ローマ字の筆記体が書けるカッコいい祖父、のイメージが強い)。小学生の頃に一度手話に興味を持った時期がありましたが、長続きしませんでした。
けれど、祖父の存在が大学やコースを決めるキッカケのひとつになったと思っています。
もう1人、大学等を決めるキッカケになったのが、母方の大伯母(母方祖母の姉)の存在です。大伯母は聴覚障害はありませんが、病気のために声が出せなくなっていました。そのため、大伯母と話をする時には、声で話しかけ、大伯母の言いたいことは文字か唇を読んで受け取る、という変則的なものでした。
大伯母は私が生まれる前から、そういった方法でわたしの母や祖母とコミュニケーションを取っていました。早くに旦那さんを亡くした大伯母には子どもがおらず、妹の孫である私を、自分の孫のように可愛がってくれました。
そのおかげなのかなんなのか、成長するに従って、私が親族の中で一番正確にかつ早く大伯母の唇を読めるようになっていました。読唇術の英才教育を受けたのではないか、と勝手に思っています(笑)。
今は亡きこの2人がいたことで、私は母校である大学を決め、今に繋がっています。
□大学受験期
中学校~高校は聴覚障害や手話とは無縁の生活でした。部活では吹奏楽や合唱に取り組み、3歳から習っていたピアノも継続中で、毎日が音や音楽だらけ。これ以前の私を知らない人であれば、「なんで聴覚障害の方向に進んだの?」と疑問を持っても不思議ではありません。実際、自分でもよく分からないです(笑)。
音だらけの生活をしながらボーっと過ごしていましたが、大学受験が現実のものとして迫ってきました。
高3の夏前、
・東京は住む場所じゃない(と中学の修学旅行で心に決めた)
・東京以西は何かあってもすぐに行けないからダメ(と親に言われた)
という条件から、地元県内もしくは母の兄がいる宮城県への進学が許可されました。
そして、中学校の時の社会科の先生が好きだったので、社会科の先生になれたらいいなぁと思い、教育系大学を志望。該当する大学は、私の知る限り県内に2つ、宮城にも2つありました。が…
県内候補①:学力が足りない
県内候補②:遠方だから嫌。(県内で1人暮らし、が当時理解できなかった)
宮城候補①:学力が足りない
という理由で、必然的に志望校が決定しました。
次はどういった形で受験するかです。その大学は推薦、前期、後期の入試がありました。チャンスは多いほうがいいので推薦を狙っていましたが、ここでハプニングが。
中学社会科のコースには入試には推薦がなかったのです。
その事実を知った私は、姑息な路線変更を図ります(笑)。つまり、「特別支援のコースに入って、基礎免許で中学社会科取ればいいじゃ~ん!」の考え。制度上、特別支援教育の教員免許を取るには、小学校か中学校の免許を一緒に取る必要があり、その基礎免許を中学社会科にすればいいじゃないか、と閃いたのです。
そこから受験対策をして、見事推薦入試を不合格(笑)
結局前期入試を受けることになり、受験書類を書くことに。その中で、視覚障害/聴覚障害/発達障害/運動障害の4つから、入りたいコースの希望順を書いて、あらかじめ申請する必要がありました。その順番を考える時に思い出されたのが、幼少期の祖父や大伯母のこと。ただ、それは決していい話ではなく、「きこえない人と一緒に暮らしたことあるし、唇読むのも得意だし、聴覚障害ならなんとかなるっしょ!」という勢いみたいな決め方でした(笑) 今思えば、それでよかったなとは思いますが、なんて楽観的なんだろう…。
センター試験でも大コケしましたが(受験生のみんな、マークシートの順番はちゃんと確認するんだ!)、なんとか志望校の聴覚障害教育コースに合格し、聴覚障害にどっぷりハマっていく大学生生活が幕を開けます。
思った以上に長くなりました。。
大学以降もいろいろあるので、今日はここまで。ありがとうございました。
「信じて待つこと」を考える
待つことの大事さを痛感しています。
一回の結果ですべてを決めつけてしまうのではなく、「次は違うかも」と思って待つこと。そう思っていると、僅かな変化にも気づけるようになる気がします。
今は携帯を持つ人が増えて、すぐに連絡を取り合うこともできるし、ネットで買い物もできて、必要なものがすぐ手に入る、便利な世の中です。私もその便利さを享受して生活しています。
でもその分、待つことへの寛容さは薄れているような気がします。
小学生の夏休みの宿題の定番、アサガオの観察みたいに、日々の変化や成長を楽しみながらゆっくり待てるような生活を、少しずつ取り入れていきたいと思います。
写真:紅茶の葉っぱとティーポット。今は、お茶を淹れる時間が「待つ」時間です。
打ち上げ花火、技を見るか、業績を見るか。
本当に、すごいものを目の前にすると、語彙がなくなるものなんだと感じました。
私たちは「すごいねー」「きれいだねー」「おもしろいねー」のオンパレード(笑)
その中で、後ろのお姉さんが、豪奢な花火が上がるたびに「○○、儲かってんなぁ!」と声をあげ、比較的抑えめな花火には「がんばった!」と声援を送っていました。
花火は、企業成績のバロメーター?
技を見るもよし、業績を想像するもよし。花火のおもしろい見方を学びました(笑)
謙遜しがちな私が今確信を持てること
自分が、世界で一番幸せ者だということ。
誰がなんと言おうとも。
誰かが宝くじを当てたとしても。
今、世紀の大発見がされたとしても。
どこかでプロポーズが成功していたとしても…。
自分が一番幸せだと、疑うことなく、そう思える。
答えられなくても応えること
科学の目を持ったタマゴとして、尊重してくれる。専門的な知識にある、近所のおじちゃんおばちゃん感がある(若い先生もいるけど、感覚的に)。「よく気づいたね〜」って、気づきを褒めることで、もっといろんなものに関心を向けていこうって思えるような気がする。#夏休みこども科学電話相談
— こより (@i_mustard) 2018年7月25日
子どもは親(をはじめとする大人)に「答え」を求めているんじゃなくて、「応え」を求めてるんだと感じる。
親や大人の知識に限界があることなんて、早かれ遅かれ、子どもは見抜かれてしまう(見抜くからこそ、その後の心理的な発達があるのだし)。だから、大事なのは、子どもが感じた「なんで?どうして??」に、目の前の大人が反応して、付き合ってくれるかどうかだ。
子どもが思った不思議さを共有して、不思議に思った子どもの気づきを褒めて、その疑問に子どもがどんな仮説を持っているのかを聞いて、一緒に調べてみてもいいかもしれない(大人が答えを知っていたとしても)。
一緒に答えを探す姿勢で応えてあげられる大人でありたいなぁと思う。