よしやおくるとも

たいせつなものがなぜたいせつか。考えて、いつか確認する時のためのブログ

弱音を聞くことが私に与える意味

「変なこと聞くけど。弱音ばっかり聞かされて、イライラしない?」

 

突然聞かれた。

意味が分からなかった。

弱音でイライラ・・・?

そんなこと、一度も感じたことなかった。

 

むしろ、自分は何もできてないんじゃないかとか

そういう気持ちになっている本人が大丈夫かとか

そんなことばかり考えていた。

 

 

弱音は人をイラつかせる。

 

確かにそうかもしれない。

愚痴を聞かされ続ければ面倒になるし、

自己卑下ばかり繰り返されたらフォローの言葉も空しくなる。

 

でも、弱音が聞けることを嬉しく思っている人もいる。

 

 

誰にでも言える弱音と、限られた人にしか言えない弱音があると思う。

そして、後者は弱音というより、「本音」の意味合いが強い。

限られた人にだからぶっちゃけることができる。

たとえば、自分が弱いと思っていることだったり、

「なんで自分なんだろう」って、自分ではどうしようもない運命を嘆くことだったり。

 

自分の内側に向けられた苦しい思いを、「限られた人」である自分に言ってくれること。

それは、聞く権利を与えられたということだと思う。

何かできるわけじゃない私を、それでもいいと認めてくれたということだと思う。

 

 

ほんとうに何もできないから、無力であることは自覚している。

 

でも「限られた人」に選んでもらったのなら、その役割は全うしたい。

 

そう思うと、弱音(本音)をずーっと聞いていたって、

ネガティブな思いは生まれないんじゃないだろうか。

 

 

私があなたの前にいる意味がたしかにある。

そして、あなたが私の前にいる意味もたしかにある。

いつか、を信じたい自分を信じる

見慣れぬ広告に出現し、長いこと放置していたことに気づきました。

そんな時に現れた、

今週のお題「あの人へラブレター」

ちょうど、今週は自分に波があったので、整理する意味で書いてみます。

 

 

 

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誕生日に小さな手紙を渡した以来の手紙だね。

パソコンで書くとはいっても、やっぱり緊張します(笑)

 

もうすぐ付き合って半年だけど、その間、いろいろ、本当にいろいろあったね。

 

体調がよくなくて、デートが延期になったり、退職せざるを得なくなったり。

悔しいことや不甲斐ないと思うことが、私には想像しきれないくらい、たくさんあったはず。

それでも、2人でいる時は、私に心配かけまいと、努めて明るくいてくれたことも感じています。

 

今もまだ、体調の波はあるし、それに引きずられるように気持ちが落ち込んでしまったり、

元気なときには「何かしなくちゃ」と焦りを感じたり、自分が自分でないような感じもあると思います。

 

頑張り屋のあなたは、すべて自分で抱えようとしてしまうけれど、

そういった思いがあるなら、どうか私にも聞かせてほしい。

 

付き合ってるとはいえ、一緒に住んでるわけじゃないから表情は見えないし、

私たちの特性上、声が聞き合えるわけじゃないから、声色から想像することもできない。

 

だから、

「こんな自分はダメなんだ」とか「嫌われないようにしなくちゃ」とか

そういった思いがあるなら、包み隠さず聞かせてほしい。

 

「言ったらどう思われるか」「愛想をつかされないか」って心配するかもしれないけれど、

むしろ、弱音や本音を吐く相手に、私を選んでくれていることが、私は嬉しい。

 

特効薬を処方できるわけではないし、実家に飛び込んでいけるわけでもないけれど、

あなたはちゃんとそこにいていいんだし、私は、あなたにそこにいてほしいと思っていることを

手を変え品を変え、あらゆる方法で伝えていきたい。

 

 

正直に言うとね、私にも不安は少しあったりする。

自分がいつまで待てるのか、変わらず待っていられるのか。

 

でもいつか、『あの時は・・・』って、思い出してあなたと話せる時が来ると信じたい。

そう思って、あなたを待つ私を、私自身が信じたい。

 

30年近い紆余曲折を経て、やっと見つけたこの手を私は絶対離さない。

 

これから何が起こるか分からないし、つらい日もむなしい日もあると思う。

でも2人で超えていきたいし、超えていけると思ってる。

 

だからどうぞ、これからも一緒に、よろしくお願いします。

 

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話さなくちゃ分からない

ローカルネタってありますね。

ケンミンショーみたいなやつ。

最近は忙しくて見れていませんが、都道府県ごとの違いが詳らかになるし、新しい発見があるので好きです。

(内容とは関係ないけど、何かを試食するとき必ず、いただきます、っていうのも好感持てます)

 

でも違いって県の中でもありますね。

 

たとえばカツ丼。

 

有名な話かもしれませんが、新潟でカツ丼は2つあります。

ひとつは一般的な卵とじ、

もうひとつはタレカツというもの。

 

醤油ベースのタレにくぐらせたカツがご飯の上に乗っかります。

 

今日同期で話してて、タレカツ丼が給食に出たよね〜って話してたら、通じないんです。

 

同じ県内の人と、ですよ。

 

驚きました。

バットからカツをご飯にのせて、個包装の刻み海苔をかけて…ってやってないんだ!って。

 

2年目になって、知ってることも増えてきたと思っていましたが、そんなこと全然ない。

 

きっとこれから何年経っても新しい発見があるのだと思います。

 

それをしていくためには、話さなくては。

話さなくっちゃ分からない。

 

そんな当たり前のことを考えさせられる、カツ丼騒動でした。

普通は食いちがう

今日、大学院の後輩の女の子に、

カッコいいって言われて。

付き合えるって言われて。

 

わたくし、オンナですけど、けっこう嬉しかったんです。

 

 

が、相手がそのことを遠慮がちに言ってきたことに「アレ?」となりました。

 

 

違和感を覚えたのは、高校の時に割と、同級生の女の子たちに壁ドンしたりしていた私がいたから。

 

女子が男性的に女性に迫ることが、ふつうだった私がいたから。

 

でもそんな過去は、他の人には見えないんだよね。

 

 

体育会系か、文化部系かっていうのも、意外と間違われる。

 

 

自分にとって自分は、連綿と続いていたもので、そこの連続性を疑うことは少ないけれど、人にとっては、出会った時の自分のイメージしかないのがふつうで。

 

 

相手が自分をどう思っているかって、自分が思ってる以上に違うかもしれないし、それまでの自分とは全く縁遠いところを予想してるかもしれない。

 

 

私たちの想像なんて、食い違うのがふつうなんだと思ったし、そう思えた方が人付き合いが楽になるかなと思いました。

 

 

違って当然、を身をもって体験した1日となりました。

過去を抱いて翔ぶ

新しい環境に入ったり

新しいことを学んだり

 

そういうときに、今までの自分ではいられなくなる時があります。

 

 

これまでの考えや知識、

はたまた自分の中の常識までもが

邪魔になったり

物事への関わり方を根本的に

見直さなくてはならなかったり

 

 

要は、自分が変わるとき、

なのだと思います。

 

 

今までのものからこれからへ

古いものから新しいものへ

 

 

このとき、

古い自分はどうしますか?

 

 

そのままでは新しい場面への適応は難しいです。

 

 

棄ててしまう?

後生大事にする?

 

 

いろんな人がいるかなと思います。

 

 

でも、ふと思ったのですが、

 

変わることとは

過去を棄てること

ではなく、

過去を認めることを

含んだプロセス

なのではないかと。

 

 

今までの私も含めたものを

受け入れられるから、

新しく変わる自分も

受け入れていける。

 

 

そんな気がします。

 

 

 

立つ鳥跡を濁さず

 という言葉も、これに似た部分があるのではないかと思うのです。

 

 

過去を淀みに置いていくことではなく、過去を浄化して、それもひっくるめて進んでいくこと。

 

 

過去を否定する必要はないんだ、と思えればそれまでの自分も無意味ではないと思えるのではないか。

 

 

そんな風に考えます。

実益を兼ねるおまじない

この上ない疲れと、自分への落胆とで潰れそうなときがありますよね。

 

落胆しすぎると

自分のことを大事にできなくなって

疲れのケアもおろそかになって

また変なところでミスをして…

 

無限ループ。

 

 

そんなときは、前に書いたみたいに壊れることも一つの方法ですが、わかりやすく「今欲しいもの」を、素直に手に入れることも有効なのかな、と思っています。

 

私の場合は、和菓子。

 

そう、大それたものじゃなくても、欲しいなーと思わず手が伸びるもの。

 

それを素直に手にしていくと、少し前を向ける気がしています。

 

 

そうなると、実際にはなにも変わっていないかもしれないけど、「和菓子食べたから、ここからは大丈夫」と思えるかもしれない。

 

それだけで、少し前向きになれるかもしれない。

 

 

前を向けそうなのであれば、方法はなんでもいいのです。

(自分を痛めつける方法は除いて)

 

 

実用的なようでいて、

おまじないのようでもある。

 

 

そんな方法が見つかっているだけで、助けになることもあるのではないか、と思います。

子どものミカタに。

子どもってすごいっていう話。

 

心理を学ぶ学生なので、カウンセリング系の論文もちょこちょこっと読んでいます。

 

子どものカウンセリングに関する論文を読んで、子どもってすごいと思ったので今日はそのことを。

 

自分の欲求に関してはストレートにぶつけてくる子も多いと思うのです。

 

あれがしたい、これがほしいって。

 

 

でも、周りへの示唆になると、そのとたんにすごく繊細な表現をする。

 

なにかを自分に見立ててみたり。

(でもそれが自分だとは言わない)

 

遊びの中で比喩的に表現したり。

(遊びのルールだと思ったら大人へのメッセージだったりする)

 

 

大人は、

…というか私は

それをどれだけ気づけるんだろう。

 

 

そして、気づいたことをどれだけ返せるんだろう。

 

 

そんな緊張感を覚えるようなことが、ここ数日続いています。

 

それは自分のあり方を根本から揺さぶられるような時間で、「自分」といつものが固まっている(と思う)大人にとっては、少し居心地の悪い時間なのかもしれません。

 

だから、その時間を終わらせようと、子どもを自分の予想の中に収めようとコントロールしてしまったり。

あるいは言いたいことを先回りして(合ってるかも確かめないまま)、子どもに伝えてしまったり。

 

でもそれじゃダメなんだよね。

 

 

論文を読んだり、経験を振り返りながら、自分の至らなさばかりが目につくのですが、伸びしろなんだ、と自分に言い聞かせて、前向きにいくしかないのかな、と思っています。

 

 

 

まずは子どもの表現に、同じ目線で関わること。

 

 

子どもの味方で。

子どもの見方で。

 

 

そんな目標を持って、誠実に進みたいと思います。