よしやおくるとも

たいせつなものがなぜたいせつか。考えて、いつか確認する時のためのブログ

想像を越えるには、自分の想像の限界を知ることだと思う

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やっとこの話題が書けます(笑)

これが書きたくて、私と聴覚障害を振り返ってきたのでした。

 

i-mustard.hateblo.jp

聴覚障害持ちの男性と付き合うようになり、彼の友達との交流も増えました。ある日、彼の友達(その人も聴覚障害者)と3人でご飯に行った時、その人からこんな質問をされました。

「ろう者になれる薬があったら、飲む?」

 

答えはすぐ出ました。

 「飲まない」

「飲まないの?ろう者の生活が身をもって分かるよ。それでも飲まない?」

「うん、飲まない」

 

飲まないという答えはすぐ出ましたが、なんで飲まない選択をするんだろう…と改めて考えたくなりました。考えてみた結果、思いつく理由は次の2つかなと思っています。

 

1)自分の感覚に頼らない

ろう者の生活が身をもって分かる…。それはたしかに、ある種魅力的だとは思います。自分が似た境遇を経験することで、大変さ・必要なことが見えるかもしれない。でも、それは私が困ることであって、助けたい誰かとか、支援を求めている誰かの困ることと100%一致はしないと思うのです。だから、たとえ私が聞こえなくなったからといって、「私はこれが困ってるから、あなたも困ってるよね!」と押し付けてはいけない。

「同じだから分かる」は、一見心強いようでそれだけじゃない。多様であれ、と声高に言いつつ、その中で「これこそが絶対!」と画一であることをよしとするような雰囲気は、あまり好きじゃありません。

相手が目指すところが何で、その道中で何に困っていて、どうしたら生きやすくなるのか。そこを考えていく時には、聞こえようが、聞こえまいが、まず目の前の相手がしている体験を知ることから始めなきゃいけない。

想像することは大切だけど、自分の想像の限界を知っておくことも同じくらい大切。どんなに役立ちたくても、自分ひとりの考えではどこかで行き詰ると思いました。

 

 

2)聴こえる私で支える

相手が困っていることを知るためなら、薬を飲まなくても、相手の話から考えればいい。1)でそんな考えに立つと、もうあとはどれだけ支援できるかだし、「だったら、聴こえる私でいた方がいいんじゃない?」というのが自然な思考の流れでした。

支援といってもいろいろあります。話し相手になる、助言する、一緒に考える、一緒に行動する…。今挙げた多くは、聴こえなくなってもできることはたくさんあるけど、周りの音情報を伝えることは、聴こえる人だけが伝えられる特権だと思います。もちろん、正しく伝えることはとても難しいです。人の話す内容ならともかく、カラスの鳴き声が本当に「カーカー」かと言われれば、「くぁぁぁぁ…くぁぁぁぁ…」みたいな時もあるし、テレビの字幕で「なにかが迫ってくる音」って出た時に、それを説明するのは至難の業です。そもそも自分が聞こえた音が正しいかも自信はないし…。

 

ただ、私自身が面白いと思ったり関心を惹かれる音があって、それを伝えることで、その場を共有する。そういう繋がり方をするのであれば、聴こえた方がいい。

まぁ、これも目の前にいる聴覚障害者が、音にどのくらい関心があるのかによるとは思います。怖い系のテレビを見て、「『ラップ音』って何?」と、ストーリーよりもそっちが気になるような人がいれば、ぜひ聴こえたように伝えたいとは思う。

 

通訳とはまた違う、その場を同じ立場で共有したい、という思いがあります。あと実際問題、災害の時とか。やっぱり、一番早くて広範囲に伝わる方法として、音が採用されることが多いと思います。それを替えていく(選択肢を増やしていく)ことも必要だけれど、それを待っているだけでは情報が届かない。

そのためには聴こえる人間が何かしら役に立つと思うのです。

 

 

というわけで、薬は飲まない結論に至った背景を考えてみました。読んでいただいてありがとうございました。