違うという多様性を許容すること
同じなのにどうしてわかりあえないのか。
そう思うと苦しくなってしまうばかりだと思うのです。"同じだ"という前提に立つことは、ある種私たちの希望がそう思わせていることもあると思っています。
同じはずなのにどうして考えが違うのか、どうして伝えたことがうまく受け取ってもらえないのか、私たちは"同じ"のはずなのに…。
そんな時、同じではなく、違うという前提に立つこと。必要なのはそっちではないかと思っています。
すべてを分かり合うのはきっと難しくて、同じ遺伝子から生まれた一卵性双生児だって、お互いをわかりあえないことだってあると思うのです。
だとすれば、遺伝子も育ってきた環境も違う人同士がすべてを分かり合うのは人生をかけても難しいことなのかもしれません。
そこで必要なのは、わかりあえないことに苛立つのではなく、それを許容していくことなのだと思います。
「私はこう思っている、そしてあなたはそう考えている」
それはこれまでのお互いの育ち方から生まれてきた考えであることも多いと思います。だとすればそれをすり合わせていく事は可能かもしれないけど、かなりの労力を伴うものだと思います。
そこをすり合わせていく努力をするのか、それとも、お互いの考えが違うことを知って、その上でそのままでよしとするのか。それはお互いが、これからどのような関係で関わっていこうと思うのか、その関係を続けていく上で、その考えをまとめた方が良いのか、あるいは多様性として許容していくのか、その都度判断していくものなのではないでしょうか。
考えが1つであることのデメリットもあると思います。意思統一をしていくべきなのかどうか、その状況状況によって丁寧に考えていくべきなのではないかと考えます。