「まぜそばを食べたくなるまで」考える
昼休みだけど、食欲がないのでこっちに避難。
食べたいなぁと思って買ったはずのまぜそばがどんどんぬるくなっていく。
まぁ、電子レンジであっためる時間が短くなっていいか。
先日、誕生日を迎えまして。20代ラストに突入しました。
そして突入したとたん、毎夜泣いています。というか、夜に限らず、朝も昼も、いつでもしんどい。途切れることなくずーっとしんどいわけではなくて、思い出したり触れたりしたとたん、もう制御がきかなくなって、自動的に泣いちゃってる。
じゃあ、思い出したり触れなければいいって頭では分かってるけど、思い出したり触れてないとそれはそれで不安が募る。
その不安の正体はいろんなものの複合体なんだと思う。
「この場で別れたあと、どう思われるんだろう」っていう不安。
「“次”がないんじゃないか」っていう不安。
「嫌われてしまうんじゃないか」っていう不安。
「自分がいることで、相手は無理をしてるんじゃないか」っていう不安。
「自分がいない方が、上手く回るんじゃないか」っていう不安。
「自分がいない方が、相手が幸せなんじゃないか」っていう不安。
自分がいない方が、っていう思いがあるけど、その存在をなくした自分を想像するだけでしんどい。でも「居てほしい」って気持ちも自分のワガママかもしれないって思うと、もう行き止まりにぶち当たる。
その行き止まりから引き返すことは出来ないし、そこを突破する力もない。
ただ、その不安に飲み込まれて、不安がただただ広がって、自分ひとりじゃ抱え切れなくなって。結局、迷惑を一番掛けたくないハズの相手に話を聞いてもらうしか、その不安に対処する方法がない。話を聞いてもらって不安は小さくなるけど、負担を掛けてしまったことに自己嫌悪して、そこをキッカケに、またちょっとずつ不安が広がっていく。
こんな感じの無限ループ。
これはきっと、今までの対人関係でもあった。
自分からはその場を離れにくかったり、なんとはなくダラダラしてたり。
それは、自分がいなくなったあとで、自分がどう思われているかを話されないための姑息な予防策だったんだと思う。
でも、ここまでのことは人生で初めてで。
そう思うようになった理由はきっと、失うことの恐怖からだ。
大事だから、失うのが怖い。失うんじゃないかって想像するだけで怖い。
知らず知らずのうちに、頼っていたみたい。
支えていかなきゃと思っていたのに、支えられていたみたい。
さて、この記事の書き始めは混乱していましたが、書きながら少し落ち着けました。
支えられて、頼っている自分に気づいたら、気持ちがちょっとラクになったような気がします。どんな時も支えていなくちゃ!って肩肘張ってるばかりじゃ、きっと続かないよっていう報せだったのかな。
よし、まぜそば食べて、仕事しよう。
みなさんも午後、それぞれの仕事、がんばっていきましょう。