よしやおくるとも

たいせつなものがなぜたいせつか。考えて、いつか確認する時のためのブログ

「また」考

 

東日本大震災は、私が大学4年になる前の春休みに起こりました。次の日は土曜日で、たしか、サークルの追いコンが予定されていましたが、もちろん、中止(そういう連絡がきたわけではないので、ほんとうにただ流れた)。次の日に会うはずだった約束が破れ、宮城での自活も難しいと判断して、私はそのまま実家へ帰省しました。実家にいても救援に関する情報を常に目にし、非日常が日常になりそうな毎日でした。

 それからしばらくして、GW明けに大学生活が再開されました。

 

そしてさらにしばらくして、大学で友達との別れ際に交わした言葉を、自分で反芻して驚いたのです。

「じゃあ、またね~」

「うん、また明日ね」

数ヶ月前、自然のちからによって破られた「また」という約束を、今普通にしている自分がいる。そして、私から出たその言葉を疑わず、「また」と返してくれる人がいる。その約束が自然と交わせる時が、また来たのだと。

 

それから7年あまりが経ち、「また」という約束は、私にとって普通のことになりました。会いたいと思えばすぐに会う約束ができるのだと、思い込んでいました。

でも、

i-mustard.hateblo.jp

↑ここに書いたように、再び「また」の約束が破れる事態に遭遇しました。(遭遇という言葉が選ばれるあたり、私にとって「また」がどれだけ自然なことになっていたのかを痛感します。)

 

ひとりの週末を乗り切って、向こうも体調を持ち直し、次の週末は会えそうだという思いが双方にあった時、ようやく「また」という言葉を使えるようになりました。

そして、「また」が実現したのです。

 

「またあとで」「また明日」「また今度」って、何気なく使う言葉だと思います。私もそうだったし、「また」という言葉を使うたびに、そわそわするような事態が頭をよぎらないことが一番だとも思っています。

 

でも、「また」が実現した喜びは、大事にしたいなと思うのです。

だって「絶対」はないから。

幸せも薄氷の上に保たれていると思うから。

 

会いたい時に会いたい人に会えるって、わりと奇跡なんです。