「同じ」とはなにか。
原因帰属、責任帰属のはなし。
何かに失敗したり、なんらかのレッテルを貼られたりした場合、それが努力不足か能力欠如かによって、人は失敗した人を非難するかどうかが決まる、というもの。
努力不足だと思えばその人を非難したり罰を与え、能力欠如だと思えば非難はせず罰も与えず。
これってバイト先で聞いた、マイノリティ同士の関係にも関わるのかなって…。
なんらかの障害があって、社会での適応がうまくいかない人が残念ながら一定数います。
(本来はそういう人たちをすくえる[掬える/救える]社会であるべきですが)
聞こえなくて(聞こえにくくて)情報が十分に得られない人、
病気のために通常の就業時間では体に無理が生じる人、
障害じゃなくても同じ。
子どもが小さくて、幼稚園や保育園からの呼び出しが多い人、
親の介護で、急に仕事を休まざるを得ない人、
そういう人たちがいます。
そういう人たちを見て、私たちはなにを思うのか。
そして、そういう人たちを見て、同じ障害を持つ人、同じ境遇の人たちはなにを思うのか。
同じ障害や境遇であれば、非難はしないのか? 罰は与えないのか?
残念ながら、それはNOだと思います。
同じ障害や境遇にあっても、非難する人は出てきてしまう。
それは、どうしてか。
私は、できている自分を守るためだったり、あるいは逆にできていない自分を守るためなのではないかと思います。
たとえば
一般企業で仕事をしている障害者の方がいるとします。
その人は障害から来る難しさを、なんとか乗り越えて日々の業務をこなしています。
そんな人が、なかなか就労できない同じ障害を持つ人に出会うとき、言ってしまうことがあると思うのです。
「ちゃんと努力してるのか?」
「甘えてるんじゃないのか?」
これはなぜなのか。
おそらく、できている自分を基準に、同じ障害を持つ人を見て、自分がしている努力に達しているかを比べているのではないでしょうか。
相対的に他者を下げ、なんとか日々を乗り越えている自分を鼓舞するために。
逆の例はどうでしょう。
なかなか就労できない障害者の方が、同じようになかなか就労できない同じ障害を持つ人に会う。
その人は就労を半ば諦めていると言います。そのとき、さっきの言葉と同じようなことを言ってしまうのではないでしょうか。
就労できていない自分が、もしかしたら「就労できない」のではないか、という恐れを振り切るために。
なんでこんなことが起こるのか。
そこには「同じ障害」という、よく言えば心強い、悪く言えば窮屈な考え方があるように思います。
ほんとうに、AさんとBさんの障害は「同じ」でしょうか?
障害を持つ方々は、これまでの抑圧された時代を生き抜き、世の中を変えていくために、「同じ障害」を持つ者同士で団結し、社会に対してアプローチを重ねてきました。
権利を主張するために
その人たちらしくあるために
その過程があってこそ、現代の世の中に障害者に関する差別に関する条約や各種の法律が整備されてきたのでしょうし、その功績の大きさは言うまでもないと思います。
でも、「同じ障害」のくくりを続けることは得策だけではないと私は思います。
障害が社会に身近になったぶん、障害を持つ人たちの生き方も多様になりました。
学校の選択、コミュニケーションの選択、キャリアの選択、職業の選択、人間関係の選択…
いろんなものが多様になった今、そのかけ算で出来上がる組み合わせは、昔と比べて多様にかつ複雑になったと思います。
そんな多様でかつ複雑な人たちを、障害という側面だけで、「同じ」ととらえていいのでしょうか。
それは結局、「同じであるのだから〜あるべき」という考えに縛られてしまい、いずれはその考えに立つ人たちをも苦しめるのではないかと思います。
同じ障害や境遇の人を、責めてしまうとき、私たちがなにを原因だと思っているのか。
私が原因だと思うものは、その人にとってのほんとうの原因なのか。
感情にまかせて責めようとしているときこそ、考えなくてはならないと思いました。