よしやおくるとも

たいせつなものがなぜたいせつか。考えて、いつか確認する時のためのブログ

一番欲しかった資格を考える

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手話通訳技能認定試験に合格しました!!

 

手話を始めて早11年。資格を取ろうと思ったのは、ここ最近のことです。

 

修士論文を書くにあたり、聴覚障害者の方々にインタビューをしようと決意しました。

そこで自分が手話をして、相手にも手話で答えを返してもらう。そういった形でのインタビューを進めることにしました。

その時に重要だと思ったのが、自分が読み取った手話が正しいのだという根拠。

修士論文の指導をしてくれた先生は、聴覚障害の専門ではありませんでした。そのため、インタビューの内容は、私が書き起こした逐語記録だけが頼り。内容の妥当性を確認する術は持ち合わせていませんでした。

 

協力してくれた人たちが話してくれたこと、これを私はきちんと読み取れていて、皆さんがしてきた体験をきちんと伝えられているのだという根拠、それを示すためには読み取りができる能力を持っていると示す必要がありました。

 

ただこれは指導の先生に言われたわけではありませんでした。ただの私の意地だったと思います。

修士論文を書きながら試験勉強。高校生以来の資格試験対策なんてものは何もありませんでした。

 

1年目は筆記試験はパスしたものの、実技試験で不合格。筆記試験のパスは翌年まで有効で、つまり今年度の試験でパスできなければ、来年度の試験ではまた筆記試験からやり直しでした。

 

とは言え、今年度は他に2つの資格試験があり、そちらは修了した大学院の評判にも関わるなかなかに重い試験でした。

それの勉強しながら、実技試験に向けても準備する。やった事はとにかく話をすると言うこと、ただそれだけでした。

 

その結果、今回の合格をもらうことができ、とてもうれしいと同時にとても不思議な気分です。今回の試験で、うまく表現できたのか?うまく読み取りできたのか?その自信がありません。

 

ただ、合格を喜んでくれる人がいて、その活躍を期待してくれている。そういった人たちがいてくれる自分である事は、自信にしていけると思います。

これからはその資格を持っている事を無駄にしないように、技術を維持向上しながら、具体的な活動をしていける、そういった存在になっていければと思っています。

 

応援してくれた人に報いること、必要としてくれる人に必要な情報が届けられること、必要としてくれる人が伝えたいことをきちんと伝えられること。

やるしかない!!!!

ウチとソトを考える

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とある研修会で宮城に来ています。

大学の同期が頑張って、でも自然体で運営していて、なんかその頼もしさに嬉しいような寂しいような。遠くなっちゃった感じに近い。

 

初めて会う人もたくさんいるんですが、いかんせん狭い業界なので、話を聞いていくと共通の知り合いが見つかることも多々あって。

 

そうなると、「この人、普段はどんな感じなんですか?」って聞かれることがあります。

 

きっと、ソトから見たらすごい人、魅力的な人に見えてるんだろうなぁ。

ウチではそうじゃない、という意味では決してなく(笑)。その印象はありつつ、そうではない面ももちろんあるので、その印象がその人をある種神格化しているような感じ。

 

ウチとソトで全く使い分けている、というわけではなく、ソトで抑えている面があるかどうかなんだろな、と思います(笑)

 

さて、研修会2日目。朝ごはん食べてきます。

2019年の漢字を考える

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明けましておめでとうございます。

2019年になりました。「平成最後の〜」にも拍車がかかっていくことでしょう。そんなに言わなくてもいいじゃない、という気持ちを持ちつつ、それを見ています。

 

 

さて、新年ということで、今年の目標を。

それは「重」です。

 

社会人1年目だった去年、引き継ぎの不十分さや私の至らなさで、仕事がうまく回せなかった反省がありました。

その反省の上に立って、仕事を進めて、自分ができることを重ねていく1年にしたいです。

これが、公的な理由。

 

私的な理由としては、楽しい思い出を重ねたい、の「重」です。

2018年、常に落ち着いていられたか、と言えばNo.です。ここでも書いてきたように気分の波があったことも多々。

それでも、やっぱり一緒にいる時がこの上なく楽しいんだなぁ。(しみじみ)

 

いい時も悪い時も、笑っても泣いても、一緒に居て、思い出を重ねていきたいです。

 

 

みなさんの2019年が輝かしいものになりますように。

そして、その何分の1でもいいので、私の2019年も輝きますように。

ちょっといいコーヒーを飲んで考える

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自然光のカフェでひとやすみ

ぱくたそ-フリー素材・無料写真ダウンロードからお借りしました。

 

先日、ちょっといいコーヒーを買ってみました。 

さっそく今朝、仕事中に飲んでみたところ・・・うまい。

普段はインスタントを飲んでいますが、香りと余韻が段違い。いつもなら、温度の低下とともに飲みたい気持ちも冷めますが、これは冷めても香りと余韻が変わらない。飲んだあと、口内に残った香りを無意識に探している自分がいます。そして、見つかるんです、これが。

 

こんなに興奮していますが、1杯あたりの値段は30.8円ほど。それでも、私にとっては「ちょっといいコーヒー」なのです。前にファーストフード店で頼んだコーヒーは、あまりにコンディションが悪く(?)、まだ温かかったのに、1/4くらい飲んだところでお別れしました。

それに比べたら、30.8円で冷めても満足できるなんて、なんてコスパのいいコーヒーなんだろう。

 

つまり、なにが「いい」のかってことに、絶対的な指標はないと思うのです。

特に感覚については、それが顕著な気がします。

美味しいとか心地よいとかの感覚って個人の好みとか、それまで体験してきたものの違いとかによって、良し悪しが大きく分かれるんだろうって思います。あまりに体験してきたものと違う時には、「異質」って捉えてしまうこともあるだろうし、そのさじ加減は自分の意思で調整できるものでもなさそうな気がします。

 

自分と相手の好みが違うときには、「体験してきた素地が違うのかも」と思ってみませんか?そうすれば、少しゆったり構えていられる気がしています。

 

生産性をゲームから考える

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任天堂スイッチが欲しくてたまらない。

大乱闘スマッシュブラザーズがやりたすぎる。

 

私のゲーム歴はとても浅い。

テレビゲームはスーパーファミコンしかやったことがないし、ソフトも4つか5つくらいしか持っていない。ゲームを欲しがらないので、友達との話題についていけないのではないかと心配した母親が、プレイステーションを買ってはどうかと提案してきたほどだ。

ポータブルゲームはゲームボーイを持っていた。画面はモノクロ、本体は分厚いやつだ。

持っていたソフトはポケットモンスターのグリーン。周りはレッドばかり持っていた。

あの頃はポケモンを交換した時、もらったポケモンの名前を変えられなかった。

ある日、友達からポケモン交換を提案された。了承してゲームボーイ同士をコードでつなぎ、友達からもらったポケモンイワークだった。名前を見て愕然とした。私の本名が登録されていた。もう変えられない。。。

それが理由ではないがゲームボーイも続かなかった。その次に買ったのは、ワンダースワンというポータブルゲームだった。この名前、友達に言ってもなかなか通じないのだけれど、マイナーなゲーム機だったのだろうか。

カードキャプターさくらのソフトを買い、何とかやり切った記憶がある。

 

それが中学生の頃。それ以降、ゲーム機を欲しがることはなく、生活してきた。

 

そんな私が今、任天堂スイッチが欲しくてたまらない。仕事がある程度落ち着いて、余裕がある時間が増えたこともある。それと同時に、自分の時間を非生産的に過ごしてみたいという気持ちもあるからだ。

ゲームをする時間はきっと生産性がない。

だけど、ゲームをしたことでリフレッシュされれば、次の日の仕事や行動が少しクリエイティブになるかもしれない、と約15年ぶりのゲームに少なからず期待している。

 

生産性の有無が世の中の話題になって少しの時間が過ぎた。

 

生産してなんぼ、という価値観は「生産」をどのように定義しているかによると思っている。その人が直接生産しなくても、誰かの生産を促進することもあるだろう。そういったことも「生産」と考えていいんではないかと思う。

 

目に見える結果だけを求められては、きっと誰もがしんどい。

 

多様性を謳う社会を作っていくなら、「生産」のあり方だって多様でいいんじゃないか、と思う。

「好きな場所で生きる」を考える

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10月は4回週末がありましたが、そのうち3回上京しました。

たいていは上京の目的が済み次第、すぐに帰宅していましたが、3回目となった第4週はちょっと勝手が違いました。

 

なんせ、そこは、わたしに興味深い世界を与えてくれた分野で、たくさんの、ほんとにたくさんの人にお世話になった場所でのお仕事。

1日目の夜は、参加者限定の企画に裏方で参加しましたが、そこで大学時代のゼミの教官と1時間ほど話していました(スゴイ人だから、話したい方が他にいたんじゃないかと思うんだけど…笑)。

公私にわたるこれからのこと、同じゼミで学んだ同期の近況を話して、あっという間に時間が過ぎていきました。

 

この時間や仕事をした時間を通して、やっぱりわたしはこの分野が好きだな、楽しいなって思えたし、なにより「私」が貢献できることがあるのかもしれない、って思いました。

 

「この仕事、自分じゃなくてもできるんじゃない?」っていうことを続けていくのって、モチベーションの維持がすごく難しいと感じています。そういう立場に徹して仕事をしていける人は純粋に尊敬するし、自分にはなかなかできないかも、って思ってしまいます。

 

「私」が「あなた」にできることがある、と感じられる世界や分野に生きることが自分のやりがいなのかも知れないなぁと思うのです。

 

だからこそ、定職につくのに時間を要しているのだという結論(というか言い訳?)にたどり着いてしまったのですが(笑)。

「生きられる場所で生きていく」も「生きたい場所で生きていく」も、その間に優劣はなくて、ただどちらでありたいか、という思いとそれをする行動力が問われるんじゃないかな。

 

まとまらないけど、これにて終了。

「辞めてよかった」を考える

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ふと、話の流れで「辞めてよかった」という言葉を聞きました。

 

それを聞いた最初に思ったのは、「あ、そう思えるようになったんだ」ということ。

 

「こうしなさい、分かるでしょ」という相手からの圧と、「こうしなくちゃ、頑張らなくちゃ」という自分の内側からの圧。その狭間で潰されかけていたから、たぶん周りからしたら「いつまで続けるんだ?」って思われるような状態だったはず。

それでも後悔していたのは、「〜〜なら、**であるべき」という社会的な目を気にしてのことだと思っています。

 

でも、それを振り切って、「(自分を守るために)辞めてよかった」と思えたのなら、少し前に進めそうな気がしています。

 

人が良くて、いろいろなことを1人で抱えて我慢している人こそ、もっと自己本位でいいのです。