打ち上げ花火、技を見るか、業績を見るか。
本当に、すごいものを目の前にすると、語彙がなくなるものなんだと感じました。
私たちは「すごいねー」「きれいだねー」「おもしろいねー」のオンパレード(笑)
その中で、後ろのお姉さんが、豪奢な花火が上がるたびに「○○、儲かってんなぁ!」と声をあげ、比較的抑えめな花火には「がんばった!」と声援を送っていました。
花火は、企業成績のバロメーター?
技を見るもよし、業績を想像するもよし。花火のおもしろい見方を学びました(笑)
謙遜しがちな私が今確信を持てること
自分が、世界で一番幸せ者だということ。
誰がなんと言おうとも。
誰かが宝くじを当てたとしても。
今、世紀の大発見がされたとしても。
どこかでプロポーズが成功していたとしても…。
自分が一番幸せだと、疑うことなく、そう思える。
答えられなくても応えること
科学の目を持ったタマゴとして、尊重してくれる。専門的な知識にある、近所のおじちゃんおばちゃん感がある(若い先生もいるけど、感覚的に)。「よく気づいたね〜」って、気づきを褒めることで、もっといろんなものに関心を向けていこうって思えるような気がする。#夏休みこども科学電話相談
— こより (@i_mustard) 2018年7月25日
子どもは親(をはじめとする大人)に「答え」を求めているんじゃなくて、「応え」を求めてるんだと感じる。
親や大人の知識に限界があることなんて、早かれ遅かれ、子どもは見抜かれてしまう(見抜くからこそ、その後の心理的な発達があるのだし)。だから、大事なのは、子どもが感じた「なんで?どうして??」に、目の前の大人が反応して、付き合ってくれるかどうかだ。
子どもが思った不思議さを共有して、不思議に思った子どもの気づきを褒めて、その疑問に子どもがどんな仮説を持っているのかを聞いて、一緒に調べてみてもいいかもしれない(大人が答えを知っていたとしても)。
一緒に答えを探す姿勢で応えてあげられる大人でありたいなぁと思う。
いっぱい食べる君が好き
食べ過ぎないように、とは思うけど、美味しいもの食べてる時は、頭の中で「いっぱい食べる君が好き」の曲が脳内ループです。
— こより (@i_mustard) 2018年6月23日
いい顔するんだもん。 pic.twitter.com/tUBiTH9rc2
「食べる」を共有することがすごく好きです。
美味しくないものであっても、大切な人と食べて「ちょっと違うかも」とか「あっちのお店が好きかな」って苦笑いすることも思い出になる。だけど、やっぱり、美味しいものを、大切な人と食べて「美味しいね」「また来たいね」って笑いあうことが最高に楽しいです。
マンガも食事系が好き。
ただし、きれいに食べてるマンガに限ります(笑)
食べることを妥協しないけど、食べること・作ることに無理を重ねることもしない。丁寧に暮らすということに憧れているのかな?
いろんな人と、美味しいものをたくさん食べる人生でありたいですね。
「聞く」ことで「受け止める」
心からの「助けて」に胸が押しつぶされそうだった。
— こより (@i_mustard) 2018年7月16日
どうしたらよかったんだろう。
自分が何もできないことは嫌というほど自覚しています。けれども、面と向かっているときに、正面から、助けを求められたことが初めてで、頷いて抱きかかえることしかできませんでした。内心はたじろいだままで。
最高の反応だったとも、最善の対処だったとも思わないけど、「聞く」ことと「受け止める」ことはしたいと思っています。
自分の中で、考えがぐるぐると巡り、それが頭を覆う感覚だと言います。しかも、巡る考えは、絶望感や無力感といった、ネガティブなもの。それを振り払おうとするほど意識してしまう。だといって、「そういうものだ」と割り切ることも難しい。
自分の中でいっぱいになってしまった時は、「聞く」ことで「受け止める」から、私にも分けてほしい。
運良く、私はまだ健康なほうにいるから、自分以外のものも持てる余裕があるし、ダメだと思ったら早めに外を見て、周りに頼ることができる。
抱えてるものが少しでも軽くなって、それに潰されてしまわないように、できることをしたいと思っています。
自分は邪魔かも?から考える
皆さんは、甲斐甲斐しく世話を焼くタイプですか?
それとも黙って影から見守るタイプでしょうか?
私は、気になる他者に対して、「良かれ」と思って行動してしまう性分です。だから、些細なことでも何かあれば連絡したいし、会えるならたくさん会いたいと思ってしまいます(ここでなんとなく伝わると思うのですが、たぶん私ってちょっと重い笑)。
ですが、そんな自分にひとつの言葉が降ってきました。
「それって相手にとっては、邪魔なんじゃないの?」
うわぁ、盲点。
相手にとって「よかれ」と思っていたことが、「邪魔」なんだとしたら。
それって、私がこれまでやってきたことやこれからやりたいと思っていること、果ては自分の存在までもが、相手にとって邪魔なのかもしれないと、一気に思考がマイナスの方向へ駆けあがりました(駆け落ちた、が正しいのかな)。
それに思考に拍車をかけたのが、自分の業務環境と今日の仕事内容。もともと1人部屋だし、今日は急いでやる仕事もない。誰かと顔を合わせる予定は勤務時間中で1時間弱。こういう時、単にボーっとしていられればラクなんだろうけど、それってすごく至難の業なんですね。かといって、何か別のことして気持ちを紛らわせようと思っても、思考に引っ張られちゃう。勉強しようかとテキストを開いても、気はそぞろなままで全然集中できないし、マイナスなループに巻き込まれて、暗くてねばっこいところに引きづられそうな感覚でした。
これはいかん!と思って、最近よく相談させてもらっている友人へSOS。
こより:なんか、自分が邪魔なんじゃないかと思っちゃう。
友人:いや正直ね、(中略)悪く言えばじゃまなんだとおもうよ!
(私の受けた衝撃を視覚化すると、こんな感じ↑笑)
おぉう、直球…。
でもそこで気づきました。私は「そうじゃない」って言われたかった。「邪魔かもしれない」自分の存在価値を、誰かに肯定してもらいたかった。ある特定の人にとって「邪魔かも」という思いが、あらゆる人にとって「邪魔かも」、もしくは「邪魔なんだ」というところまで、拡大適用されていました。それが友人の言葉で、剥がれ落ちました。
友人は続けます。
友人:ただその場合は(中略)、自分がいやでしかたないし、回りぜんぶがじゃまなんだとおもう。
友人:「なにもかもがいや」で「何をしたらいいかもわからない」で「自分はなんてだめなやつなんだ」だからなぁとおもうよ。
友人:でも落ちてるときはぜんぶいやになるけど、浮かんでくるときには絶対こよりちゃんが浮き輪になってくれてるんだろうから、大丈夫だよー!
この友人は、今の私と似たような状況を過去に経験しています。同じような経験をしていることもあって、その友人からの言葉は本当に今の私にとっての支えです。なにより一つひとつの言葉が私にとってあったかい。文章のあったかさって絵文字とかスタンプじゃないんだなって、この友人と話していると実感します。人柄がそのまま文になってる感じ。
そして、連投の最後に一言。
友人:でもわたしがそばにいたいんだから仕方ないよ!笑
そうです、そうでした。
目の前のことに気を取られて、見えなくなっていました。
前から相手がしんどさを抱えていることは知っていました。それでも構わないから一緒にいたいと願ったのは、他でもない私。そして、しんどい日がいつかは明けると信じているのも私。
既読がつけば泣くし、返事があればもっと泣くし、調子がいいと聞けばもう嗚咽。
あまり情感豊かではない私の心を(良くも悪くも)揺さぶってくれるし、そのおかげで人間らしくなれるし、生活のほかの面も楽しくなる。そんな人は他にいないと思っています。
たしかに、邪魔かもしれない。でもそれは「いつも」じゃないはずで。だから、隣に居てもいいのかなって思えたんです。
そして、またいつか自分が「邪魔かも」と思ってしまった時には、なるべく邪魔にならないような関わりを持ちたい。ぴったりくっつくことはしないけど、近くにいることが伝わるように。いつでも頼っていいことが伝わるように。
まぁ、実行するのは難しいですよね。
私が30年近い人生で作ってきた対人関係の持ち方を変えなきゃいけない面も出てくるとは思います。長い時間をかけて作ってきたものの形を変えることの難しさは、対人援助の仕事をしていても感じるところです。
でも、これからの人生、どこかで変えなきゃいけないのだとしたら? もしそうなら、今、この人のために変えることが一番有意義な気がするし、この人のためなら変えられるし、変えたいと思う自分がいます。そんな自分を信じて、ちょうどいい距離感を見つけていきたいです。
またきっと、ここでウダウダ言うとは思うけど、今日はここで決着つけました。
眠りを誘う安心感
私用で実家に帰ってきています。
一人暮らしに必要なものを集めて荷物を準備し、明日は実家から車で直接通勤します。夕食を食べて、家族で団欒し、お風呂に入って、今はもうベットの上なのですが、これが猛烈に眠い(笑)
そこでふと思うのです。
安心感があってこそ人は落ち着いて眠ることができるのではないかと。
自分に危害を加えそうなものとは距離が取れていて、安心できるものに囲まれていること。
それが確信できる時、人は本当にリラックスして眠れるのではないかと思うのです。
安心して眠ることが難しい人が確かにいて、それで苦しんでいる人も多いと思うのです。
そんな人には、自分にとって落ち着ける環境がどういったものなのか。そういったことを見つめ直すチャンスと捉えて、少しでも肯定的な意味を見つけてほしい。
そのために、自分にできることがあれば全力を尽くしたいと思っています。