よしやおくるとも

たいせつなものがなぜたいせつか。考えて、いつか確認する時のためのブログ

倍速世代

朝、ラジオを聞いていたら「倍速世代」の話が。

様々な映像コンテンツを倍速で見る人が、10~20代の中で増えている。そういう人を指す言葉だそうです。

 

それを紹介したラジオのパーソナリティはちょっと納得いかなそうでした。

 

セリフの間が大事なのに。

泣いたり笑ったり感動できるの?

 

わたしも倍速世代の人間だなと思ったので、私が倍速する理由や倍速世代が増えている理由を考えてみました。

 

1.時間短縮

何よりこれ!

1時間の番組が都合30分で見られる。

録画ならCMも飛ばせるし、もっと短縮できるかも。

 

別に、興味がないわけではない。

興味なかったらまず録画しないもんね。

(動画サイトなら、その動画を見ない)

 

でも、どんな放送だったのかな、っていうのをまず知るのなら、倍速で十分。

そこから選んでいく過程になるのです。

 

 

2.録画する≠残しておきたい

今の録画観が変わってきているのかなと思うのです。

録画も番組表から選ぶだけ、

同時に複数番組の録画もできる、

消すのも簡単。

 

 

そうなってくると、録画している番組全てが、残しておきたいものではなくなってきました。

色んな番組を知りたい、でも時間は有限。

 

そうなると、一つひとつの番組に同じ深さで付き合うのは難しい。

 

そのためにまず倍速、という流れなのかと思います。

 

 

でも、なんでもかんでも倍速か、と言われると例外も。

 

私が倍速するのはバラエティと初見のドラマが中心。

なぜなのか。

 

たぶん、友だちへの話、Twitterでの話についていくためです。

 

そのためには全てをちゃんと理解しなくても、雰囲気で良い。

分からなければ「そのへん流しちゃって…」でいい。

(本来は、「見てなかったんだけど、どんな内容だったの?」と聞けることが望ましいのだと思いますが、変な気遣いかな)

 

その一方、ラジオのパーソナリティが言っていたように、間の大切さは分かります。

コントとか漫才とかは、標準速度。

舞台のお芝居は何回目でも標準速度で見ます。

 

きっと自分なりに間を大切にする番組と、そうではない番組とかあるのかなと思います。

 

 

でも、倍速世代がいいことばかりではないと、思うのです。

倍速で見てしまう人って、没入するのが大変なのではないかと。

 

私がそうなのですが、何かを気合い入れて見ようとするとき、なかなかうまくいきません。

どこにその時間を作るのか、何を準備して…と思うと、見る気がなくなります(笑)

その意味では、サラッと見るのが合っている世代なのかもしれません。

 

対照的に、きちんと見る人はドラマやバラエティの世界にきちんと入って、集中して見れる人なのかな、とも思えます。

 

 

あなたは倍速世代ですか?

どんなメリットを感じていますか?

泉の掘り方

大学院も2年となり、そろそろ現実的な問題なのが就活です。

私のいる領域は、就活のスタートが遅めで、今動いている人はほぼいません。

情報収集はしていますが。

 

そんななか、

ありがたいことに、2つの職場から声をかけていただきました。

 

ひとつは今学んでいる専門分野は活かせるけど、関わりたい領域ではあまりなくて。

もうひとつはその逆。

 

うん…悩むよね。

悩んだ。

 

その結果、ひとつめのほうは辞退しました。

 

なんでか。

 

自分でもわからない。

 

でも、そのことを院の先生と話していて

「かなりそこ(ふたつめのほう)に思い入れがあるのね」って言われました。

 

「思い入れ」

 

自分では当たり前すぎて、もう正体がわからなくなっているもの。

でも、人から見ると確かにあるみたい。

 

 

その流れの中で思い出したことがありました。

 

 

学部のときの話です。

 

卒論発表会の講評で、ある先生がおっしゃいました。

 

汝、足元を掘れ

そこに泉はある

 

誰かの言葉だそうです。

このことばは、「足元にある当たり前のことに気づけ」ということでは収まりません。

 

足元を掘る…

つまり、今自分がまさにいる場所を掘る。

そのためにはどうしたらいいのでしょう。

 

その場で飛んで、浮いている時間に何らかの道具で土を掘る。

 

想像すると無様な画です。

 

人に見られたら、掘るのをやめてしまうかもしれません。

 

 

でもそこに大事なものがあるのだ、たとえその過程は苦しくても、恥ずかしくても。

 

そんなことばだと思っています。

 

 

自分が何をやりたいのか。

はっきりしているようで、でも、それを人に伝えられる自信もなくて。

 

そんな今だからこそ、無様に足元を掘る時期なのかもしれないと、思いました。

「同じ」とはなにか。

原因帰属、責任帰属のはなし。

何かに失敗したり、なんらかのレッテルを貼られたりした場合、それが努力不足か能力欠如かによって、人は失敗した人を非難するかどうかが決まる、というもの。

 

努力不足だと思えばその人を非難したり罰を与え、能力欠如だと思えば非難はせず罰も与えず。

 

これってバイト先で聞いた、マイノリティ同士の関係にも関わるのかなって…。

 

 

なんらかの障害があって、社会での適応がうまくいかない人が残念ながら一定数います。

(本来はそういう人たちをすくえる[掬える/救える]社会であるべきですが)

 

聞こえなくて(聞こえにくくて)情報が十分に得られない人、

病気のために通常の就業時間では体に無理が生じる人、

 

障害じゃなくても同じ。

子どもが小さくて、幼稚園や保育園からの呼び出しが多い人、

親の介護で、急に仕事を休まざるを得ない人、

 

そういう人たちがいます。

 

そういう人たちを見て、私たちはなにを思うのか。

そして、そういう人たちを見て、同じ障害を持つ人、同じ境遇の人たちはなにを思うのか。

 

同じ障害や境遇であれば、非難はしないのか? 罰は与えないのか?

 

残念ながら、それはNOだと思います。

同じ障害や境遇にあっても、非難する人は出てきてしまう。

 

それは、どうしてか。

 

私は、できている自分を守るためだったり、あるいは逆にできていない自分を守るためなのではないかと思います。

 

たとえば

一般企業で仕事をしている障害者の方がいるとします。

その人は障害から来る難しさを、なんとか乗り越えて日々の業務をこなしています。

そんな人が、なかなか就労できない同じ障害を持つ人に出会うとき、言ってしまうことがあると思うのです。

 

「ちゃんと努力してるのか?」

「甘えてるんじゃないのか?」

 

これはなぜなのか。

おそらく、できている自分を基準に、同じ障害を持つ人を見て、自分がしている努力に達しているかを比べているのではないでしょうか。

 

相対的に他者を下げ、なんとか日々を乗り越えている自分を鼓舞するために。

 

 

逆の例はどうでしょう。

なかなか就労できない障害者の方が、同じようになかなか就労できない同じ障害を持つ人に会う。

その人は就労を半ば諦めていると言います。そのとき、さっきの言葉と同じようなことを言ってしまうのではないでしょうか。

 

就労できていない自分が、もしかしたら「就労できない」のではないか、という恐れを振り切るために。

 

 

なんでこんなことが起こるのか。

 

 

そこには「同じ障害」という、よく言えば心強い、悪く言えば窮屈な考え方があるように思います。

 

ほんとうに、AさんとBさんの障害は「同じ」でしょうか?

 

 

障害を持つ方々は、これまでの抑圧された時代を生き抜き、世の中を変えていくために、「同じ障害」を持つ者同士で団結し、社会に対してアプローチを重ねてきました。

 

権利を主張するために

その人たちらしくあるために

 

その過程があってこそ、現代の世の中に障害者に関する差別に関する条約や各種の法律が整備されてきたのでしょうし、その功績の大きさは言うまでもないと思います。

 

でも、「同じ障害」のくくりを続けることは得策だけではないと私は思います。

 

障害が社会に身近になったぶん、障害を持つ人たちの生き方も多様になりました。

学校の選択、コミュニケーションの選択、キャリアの選択、職業の選択、人間関係の選択…

いろんなものが多様になった今、そのかけ算で出来上がる組み合わせは、昔と比べて多様にかつ複雑になったと思います。

 

そんな多様でかつ複雑な人たちを、障害という側面だけで、「同じ」ととらえていいのでしょうか。

 

それは結局、「同じであるのだから〜あるべき」という考えに縛られてしまい、いずれはその考えに立つ人たちをも苦しめるのではないかと思います。

 

 

同じ障害や境遇の人を、責めてしまうとき、私たちがなにを原因だと思っているのか。

私が原因だと思うものは、その人にとってのほんとうの原因なのか。

感情にまかせて責めようとしているときこそ、考えなくてはならないと思いました。

1月も3分の2が終わろうと・・・

こんにちは、もう1月も20日なのですね。

紅白の余韻からようやく現実に戻れたものの、くじけそうなときに紅白→ベストアーティストと見てしまう…。

みなさんは、どうなんでしょう。

(まず、これを読んでくれている“みなさん”ってどんな人だろう…)

 

今年はV6のソロが充実する年なのかなぁって感じがしますね。

坂本さんはソロコン、

長野くんはフォエプラ、

岡田くんと剛くんは映画、

健くんは歌舞伎!

2014年みたいな感じなのかな~って勝手に想像しております。

 

願わくば、剛くんの舞台が見たい…。

紅白のとき、髪の毛の色を見てから、

 

「これは…幸人くん、再演…か?」

 

って盛り上がってたんだけどなァ。

夜中に犬に起こった奇妙な事件、大好きなんです。

あれで、舞台俳優・森田剛にハマった。

 

どんな形であっても、6人がそれぞれの場所で活躍していて、そのバックグラウンドにV6があるということが、幸せなんだなって、近頃のニュースを見ていて思います。

 

 

どんな1年になるのかな。

みなさんも良い年でありますよう。

ならび行く人にはよしやおくるとも

ご無沙汰してしまいました。

その間に、ブログのタイトル、変えちゃいました。

 

「よしやおくるとも」

 

先日、明治神宮で引いたおみくじに書いてあったことばです。

 

ならび行く人にはよしやおくるとも

ただしき道をふみなたがへそ

(多くの人々と並んでいく世の中で、たとえ、他の人々にはおくれることがあっても、あまり急いで、正しい道をふみあやまらないでほしいものです)

 

働いてはいるけれど非正規・時給・ボーナスなし、という生活を4年続けてきました。

仕事はそれなりに任せてもらっているし、楽しい部分もあります。

それでも、友だちはボーナスで旅行に行ったり、おいしいものを食べたり…。

SNSでそんな様子を知る度に、今の自分を惨めに思うこともゼロではありません。

(現状の原因が自分にあると分かってはいても…)

 

そんなとき、気休めのおみくじかもしれないけれど、「遅れてもいい。それよりも踏み誤らないこと」と言ってもらったことは、今の自分への大きなエールでした。

 

 

寒くなって、年末や年度末がチラチラと見えてくる時期です。

あーでもないこーでもない、だからってどーしろと、と気持ちが急くことがあったら、

自分のペースを刻みながら、やりたい気持ちに正直に向き合ってみることも、大事かも…。

 

おみくじからそんなことを教えてもらいました。

10年を超えて今…

数日前、TwitterでOrangeとTimelessの歌詞が繋がっている!というツイートを拝見し、鳥肌が立ちました。

その興奮冷めやらぬ中、わたしなりにOrangeとTimelessの関係性を考えてみたくなり、その拙い結果をまとめてみます。それではスタート。
 
 
 
OrangeとTimeless
 
 
 
10周年の節目に発売されたOrange
ここでの「僕」は大きな決意を抱えて立っている。
 
どうなるかわからない、結果の見えない未来への決意。それは不安と緊張を併せ持つ。
だからこそ、僕の手は「少し冷たい」し、胸は「依然高ぶる」状態を脱しない。
 
そして「君」は、決意を持って旅立つ僕が「手を振る」相手であり、「僕」を見送る存在であることはわかるものの、「君」がどんな道を行くのかは描かれていない。
 
ただ、「大人に成り過ぎた」「僕ら」は、旅立たなくてはならず、それを知らせる「鐘の音」を聞いている。
 
 
一方、Timeless
ここでの「僕」は昔の夢を持ち続けながらも、10年の間で傷つき苦しんだ存在である(このへんは、2番の出だし、長野くんのソロがそう思わせる)。
 
そしてふと、「君」も「僕」と同じように傷つき、苦しんだのだと気づき、仲間が迷いながらも進んでいることが誇らしく見えてくるように思える。
 
《誇らしく見える》ことについては、歌詞では特に書かれていない。
ここの論理の飛躍は、今年の2月、日本アカデミー賞を岡田くんが受賞したときに、井ノ原くんが送ったメールで埋めたい。
それ以外にも、「このメンバーのここが好きだ/素敵だと思う」という発言をよく目にする気がする。この類の発言は、仕事への心構えとか各メンバーのポテンシャルの話になることが多い。個々で仕事をすることが増え、それをよく見ているのだろうと思う。
 
話をもどす。
 
「君」が傷つき苦しみながらも、自分の夢を持ち、進んでいることを知った「僕」は、フィールドが違えど、孤軍奮闘している「君」の存在が、大きな支えになってくる。
 
普段は意識しないけれど、つながっている。
姿は見えないけれど、伴走している。
 
そんな心強さを互いに感じながら、「僕ら」はまたそれぞれのフィールドで傷つき苦しみ迷いながら進んでいく。共通の帰る場所とそこに集まる人を思いながら。
 
2作の間にはそんな物語が見え隠れするような気がするのだ。
 
 
舞台を設定するとすれば、Orangeは卒業式前夜、Timelessは同窓会の帰り道。
前者は自分の意思に関わらず、《進まなければいけない》状況があり、そこに照準をあわせて、自分の将来をイメージする感じ。
後者はそこから時間が過ぎ、今までの自分のあり方や支えてくれていた周りを見渡したあと、《自分の意思で歩き出す》感じ。
 
 
そして、卒業式から同窓会までの10年間、曲と同様の歩みをメンバーも経てきたのではないかと思う。
 
新しいステップとして個々の活動が増え、孤軍奮闘のなかで迷い苦しんだとき、他の5人が真摯に物事に取り組む姿が支えになったと思ってしまうのは、都合が良すぎるだろうか、夢を見すぎているだろうか。
 
でも、気心知れた仲間や《帰る場所》があるからこそ、そこに誇れるような仕事をしたい、誇りに思ってもらえる自分でありたいと思う気持ちは、多くの人にあるものではないだろうか。
そして、この《帰る場所》と仲間の存在こそが、「絆」であると思うのだ。
 
 
Super Very Bestの初回限定盤Aには、メンバーが作詞した新曲、「此処から」が収録されているという。
個人活動で得た大きなお土産を持ち寄って、《帰る場所》に集まった6人が、「此処から」なにをスタートさせるのか、今からワクワクを禁じ得ない。
 

V6にハマって

最初のブログで書きましたが、現在、V6にハマっています。

きっかけは、2013年に公開された映画「図書館戦争」。
 
昔から俳優としての岡田くんが大好きでした。
木更津キャッツアイやタイガー&ドラゴン、SPも見ていました。
当時、私は高校3年。受験勉強の最中でも欠かさず。
 
音楽を聴いたこともあります。
小学生のころに、WAになっておどろうを鼓笛演奏しました。
そしてなぜかOrangeは、DVD付きで買っていました。
 
でも、それぞれが一過性であり、ずっと続くことはなかったのです。
 
 
それが瓦解したのが、2013年。図書館戦争を見に行った時です。
表現の自由にアプローチするストーリー性に惹かれて観に行きました。
(きっとどこかで書くときがあると思いますが、「権利」に関心があります)
 
ですが、2時間後、私は買う予定のなかったパンフレットを手に、映画館を出ました。
ストーリーはもちろん、すべてのキャストがステキで、そのなかに社会的なメッセージもあって
映画全体が、私のツボにハマってきた感覚でした。
 
そしてこのあと、この熱に油を注いだのは、インターネットと環境の変化でした。
 
それまでの私は、好きになりそうなきっかけがあっても、「次」を知る機会がなく、薪を足されない炎のように、自然に鎮火していたのです。
しかし、働き始めた私の手元には、iPadがありました。
学生の頃のように動画を漁り、岡田くん以外の5人にも目を向けるようになり、それぞれの関係性や、6人でいるときの雰囲気を見たら…一気にハマってしまったのです。
 
OMGコンの終了とともに好きを自覚し、その後、コンサートDVDを2009年まで揃え、CDも買い(Timelessはショップ盤以外ぜんぶ買った)、2014年に行われた演劇はすべて見に行きました。
 
今の年齢までジャニーズに関心がなかったので、「担当」という概念はよくわからないのですが、舞台を観たせいもあって、今は森田さんの一挙手一投足に注目しています。これが担当ということなのでしょうか。教えて、わかるひと。
 
さて、もっと書きたいことはたくさんあったのに、長くなってきました。
うまくまとめてまた書きなぐっていきたいと思います。
 
「ここもうちょっと!」っていうご意見があれば嬉しいです。
でも、なくっても書きます。
 
これからもよろしくお願いします。