話さなくちゃ分からない

ローカルネタってありますね。

ケンミンショーみたいなやつ。

最近は忙しくて見れていませんが、都道府県ごとの違いが詳らかになるし、新しい発見があるので好きです。

(内容とは関係ないけど、何かを試食するとき必ず、いただきます、っていうのも好感持てます)

 

でも違いって県の中でもありますね。

 

たとえばカツ丼。

 

有名な話かもしれませんが、新潟でカツ丼は2つあります。

ひとつは一般的な卵とじ、

もうひとつはタレカツというもの。

 

醤油ベースのタレにくぐらせたカツがご飯の上に乗っかります。

 

今日同期で話してて、タレカツ丼が給食に出たよね〜って話してたら、通じないんです。

 

同じ県内の人と、ですよ。

 

驚きました。

バットからカツをご飯にのせて、個包装の刻み海苔をかけて…ってやってないんだ!って。

 

2年目になって、知ってることも増えてきたと思っていましたが、そんなこと全然ない。

 

きっとこれから何年経っても新しい発見があるのだと思います。

 

それをしていくためには、話さなくては。

話さなくっちゃ分からない。

 

そんな当たり前のことを考えさせられる、カツ丼騒動でした。

選択の感度

空いちゃいました。

忙しいとダメですね。

それに車通学はさらにダメです。

携帯を見る時間が取れない。

 

 

さて。

 

 

感傷的になる景色というのがあります。

みなさんにもあるかと思います。

 

私の場合、ホームの両端で発車を待つ電車。これが今一番感傷的になります。

 

 

簡単に言ってしまえば、恋の話です。

気になる人と同じホームに向かって歩き、乗り込む電車はそれぞれ別。

 

「そろそろ行きますか」

「座れるうちに乗りますか」

 

相手の気遣い(私と一緒が嫌だった可能性もありますが)をすべて是として、行動しました。

 

なんであのとき、

 

と思うことだらけです。

 

「もう少しゆっくりしても」とか

「ホームで座って入れればいいので話しませんか?」とか

もっと言えることがあったと思うのです。

(それを相手が是とするかは別だけど)

 

ただ聞き分けのいい子であることが、あのとき必要だったのか。

素直に話しても良かったのではないか。

 

そんなことを考えます。

 

 

Life is choices.

 

選択が大事なのはよく分かります。

でもそれ以上に大事なのは、「ここは自分で選ぶときだ」と思える感度なのではないかと思うのです。

 

流れてもいいところは流れて

留まるところは留まってすぐに選択する

 

その振り分けが大事なのではないかと。

 

 

感傷的な景色が目の前にあるので、そんなことをつらつらと考えてしまいました。

悲劇への意地

前にも書いた、NHKの番組、

『SWITCHインタビュー 達人達』。

 

渡辺直美さんとムロツヨシさんの回がとても楽しくて、繰り返し録画をよく見てます。

 

 

終盤、ムロさんが自身を『喜劇役者』と語る理由を話していました。

 

世の中は悲劇だらけ。

それが悔しい。

どうやったら喜劇を増やせるか。

 

それだけでもすごいなって思ったのですが、さらに。

 

 

3.11で見た景色には敵わない。

あの悲劇には何をやっても

敵わないかもしれないけど、

足掻くことはできるし、

またあれがやってくるかもしれない場所にあって、

それがくるまでの間は

どうか喜劇でいてほしい。

だから、意地ですよね。

 

 

そんな風に語っていました。

これを最初に見たとき、泣いてしまいました。

 

 

悲劇への意地で、喜劇役者と名乗る、

その背景に3.11があったこと。

 

 

 

あの日に終わってしまったもの・止まってしまったものが、悔しくも確実に存在する中で、あの日から始まったことがある。

 

それを6年が過ぎた今も、気持ちの熱を入れて語ってくれる。

あの地震が持ったポジティブな意味、未来志向の意味を語ってくれることは、被災した私にとって心が温まることでした。

 

 

 

人から見れば「カッコつけ」と言われそうなことでも、自分で考えた信念に従って、正しいと思う道に進んでいく。

 

 

そのカッコよさに惚れた日でした。

 

普通は食いちがう

今日、大学院の後輩の女の子に、

カッコいいって言われて。

付き合えるって言われて。

 

わたくし、オンナですけど、けっこう嬉しかったんです。

 

 

が、相手がそのことを遠慮がちに言ってきたことに「アレ?」となりました。

 

 

違和感を覚えたのは、高校の時に割と、同級生の女の子たちに壁ドンしたりしていた私がいたから。

 

女子が男性的に女性に迫ることが、ふつうだった私がいたから。

 

でもそんな過去は、他の人には見えないんだよね。

 

 

体育会系か、文化部系かっていうのも、意外と間違われる。

 

 

自分にとって自分は、連綿と続いていたもので、そこの連続性を疑うことは少ないけれど、人にとっては、出会った時の自分のイメージしかないのがふつうで。

 

 

相手が自分をどう思っているかって、自分が思ってる以上に違うかもしれないし、それまでの自分とは全く縁遠いところを予想してるかもしれない。

 

 

私たちの想像なんて、食い違うのがふつうなんだと思ったし、そう思えた方が人付き合いが楽になるかなと思いました。

 

 

違って当然、を身をもって体験した1日となりました。

過去を抱いて翔ぶ

新しい環境に入ったり

新しいことを学んだり

 

そういうときに、今までの自分ではいられなくなる時があります。

 

 

これまでの考えや知識、

はたまた自分の中の常識までもが

邪魔になったり

物事への関わり方を根本的に

見直さなくてはならなかったり

 

 

要は、自分が変わるとき、

なのだと思います。

 

 

今までのものからこれからへ

古いものから新しいものへ

 

 

このとき、

古い自分はどうしますか?

 

 

そのままでは新しい場面への適応は難しいです。

 

 

棄ててしまう?

後生大事にする?

 

 

いろんな人がいるかなと思います。

 

 

でも、ふと思ったのですが、

 

変わることとは

過去を棄てること

ではなく、

過去を認めることを

含んだプロセス

なのではないかと。

 

 

今までの私も含めたものを

受け入れられるから、

新しく変わる自分も

受け入れていける。

 

 

そんな気がします。

 

 

 

立つ鳥跡を濁さず

 という言葉も、これに似た部分があるのではないかと思うのです。

 

 

過去を淀みに置いていくことではなく、過去を浄化して、それもひっくるめて進んでいくこと。

 

 

過去を否定する必要はないんだ、と思えればそれまでの自分も無意味ではないと思えるのではないか。

 

 

そんな風に考えます。

実益を兼ねるおまじない

この上ない疲れと、自分への落胆とで潰れそうなときがありますよね。

 

落胆しすぎると

自分のことを大事にできなくなって

疲れのケアもおろそかになって

また変なところでミスをして…

 

無限ループ。

 

 

そんなときは、前に書いたみたいに壊れることも一つの方法ですが、わかりやすく「今欲しいもの」を、素直に手に入れることも有効なのかな、と思っています。

 

私の場合は、和菓子。

 

そう、大それたものじゃなくても、欲しいなーと思わず手が伸びるもの。

 

それを素直に手にしていくと、少し前を向ける気がしています。

 

 

そうなると、実際にはなにも変わっていないかもしれないけど、「和菓子食べたから、ここからは大丈夫」と思えるかもしれない。

 

それだけで、少し前向きになれるかもしれない。

 

 

前を向けそうなのであれば、方法はなんでもいいのです。

(自分を痛めつける方法は除いて)

 

 

実用的なようでいて、

おまじないのようでもある。

 

 

そんな方法が見つかっているだけで、助けになることもあるのではないか、と思います。

子どものミカタに。

子どもってすごいっていう話。

 

心理を学ぶ学生なので、カウンセリング系の論文もちょこちょこっと読んでいます。

 

子どものカウンセリングに関する論文を読んで、子どもってすごいと思ったので今日はそのことを。

 

自分の欲求に関してはストレートにぶつけてくる子も多いと思うのです。

 

あれがしたい、これがほしいって。

 

 

でも、周りへの示唆になると、そのとたんにすごく繊細な表現をする。

 

なにかを自分に見立ててみたり。

(でもそれが自分だとは言わない)

 

遊びの中で比喩的に表現したり。

(遊びのルールだと思ったら大人へのメッセージだったりする)

 

 

大人は、

…というか私は

それをどれだけ気づけるんだろう。

 

 

そして、気づいたことをどれだけ返せるんだろう。

 

 

そんな緊張感を覚えるようなことが、ここ数日続いています。

 

それは自分のあり方を根本から揺さぶられるような時間で、「自分」といつものが固まっている(と思う)大人にとっては、少し居心地の悪い時間なのかもしれません。

 

だから、その時間を終わらせようと、子どもを自分の予想の中に収めようとコントロールしてしまったり。

あるいは言いたいことを先回りして(合ってるかも確かめないまま)、子どもに伝えてしまったり。

 

でもそれじゃダメなんだよね。

 

 

論文を読んだり、経験を振り返りながら、自分の至らなさばかりが目につくのですが、伸びしろなんだ、と自分に言い聞かせて、前向きにいくしかないのかな、と思っています。

 

 

 

まずは子どもの表現に、同じ目線で関わること。

 

 

子どもの味方で。

子どもの見方で。

 

 

そんな目標を持って、誠実に進みたいと思います。