よしやおくるとも

たいせつなものがなぜたいせつか。考えて、いつか確認する時のためのブログ

通訳の感度を考える

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よい通訳者とよい通訳の間にはどんな関係が成り立つのだろうか。

 

よい通訳をする人は、よい通訳者なのか。

よい通訳者は、よい通訳をするのか。

感覚的に「100%イコールではない」という気がしてくる。それは、「よい」ということばがいろんな側面をはらんでいるからだと思う。

 

適時、適切、適当ということばがある。

適時はタイミングを言うとして、適切と適当はどう違うのか。

 

調べてみてのイメージでは、どうやら適切は内容に当てはまっていることを言い、適当は相手に当てはまることを言うようだ。

https://iso-labo.com/wakaru/business/teki.html

 

これを通訳の場面で考えると、

適時…「ここだ」というタイミングで

適切…話の内容を漏らさず

適当…相手に分かるように伝える

ことがいい通訳とも言える。

 

ただここで気をつけなくてはいけないことは、「いつから」その通訳を始めるかということ。

 

舞台での通訳なら、話し手が話を始めてからになる。会場の雑談を通訳しないことに対して、何か言われることはないと思う。

でも、これが聴こえる人同士の会話に同席しているろう者とその通訳者なら?

 

「聴こえる人同士の話なら、別にいらないんじゃない?」と思う人もいるだろう。

 

でもその判断をあなたはどうやって下したのだろう。判断の材料となったのはなんだろう。

きっと、それは音なんじゃないだろうか。

何を話されているかが分かるからこそ、「この話は聞いておきたい」とか「この話はいいや」と判断できる。

 

その判断の重要性をいかに分かっているか、そこの感度を持っている人が、いい通訳者であると思っている。

技術の有無は試験で振り分けられる。

でも、その感度は試験では分からない。

どうやって感度を育てていくことができるのか、きっとこれから考えていかなくてはならない課題なんだと思う。

《どうして?》の手話から考える

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昔からそれなりに、ことばというものに興味を持っていたと思う。

中途で難聴になった祖父と、音声言語を持たない大伯母に接する中で、ことばの多様性にはちょっとだけ敏感だったかもしれない(だからといって、外国語を習得するほどではなかったけれど)。

 

この前、ろうの人と話している時、《どうして?》というニュアンスで、その人がある手話表現をした。何気ない会話の流れだったし、その内容は忘れてしまっているのだけれど、その表現だけが強く残っている。

 

《どうして?》に該当する手話表現はいくつかある。

 

左手の手のひらを下にして、そこから人差し指を伸ばした右手を外に向かって2、3度振る《理由》を意味する手話、ハテナマークの上部分を模した指を額の前に持ってきて左から右へゆるやかなカーブを描くように動かす手話、アロハ~!という時に作る手の形を鼻の前に持ってきて少し前に出す手話、、、

 

でも、そのときに相手が示したのは、OKの手の形から伸ばしている指を全部しまって、親指を人差し指の第1関節くらいまで下げた手の形を、こめかみの脇に持ってきて手首を外側に向けてひねる手話(動きを文字にするのは難しすぎ!そして、長すぎ!)。

これは、私が暮らす地域特有の手話表現で、いうなれば「方言」ということになる。

 

先に挙げた3つの手話表現は、どれも《どうして?》という意味だと読み取れるし、意思疎通には何の問題もない。実際、今までの会話では、「方言」を使うことのほうが少なかった。

 

でも、「方言」を使ってくれた表現をしてくれたことが強烈に嬉しかった。

きこえている人からしても、自分に馴染みのあることばというものがあるように思う。例えば、“アホ”はいいけど“バカ”はどうも使いづらかったりとか、突然冷たいものに触れた時、とっさに出てしまうことばが“ひゃっこい”だったり。

 

標準語は多くの人に伝わるという点で便利なことばだけれど、その人の人となりや背景を知るときには、「方言」が果たす役割も大きい。

なにより、その人が馴染んだ自然なことばをふいに使うほど、自分に気を許してくれていると感じられると嬉しい。

 

「おっ」という驚きと、ふわっとしたあたたかさ。それを指から感じた瞬間でした。

一番欲しかった資格を考える

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手話通訳技能認定試験に合格しました!!

 

手話を始めて早11年。資格を取ろうと思ったのは、ここ最近のことです。

 

修士論文を書くにあたり、聴覚障害者の方々にインタビューをしようと決意しました。

そこで自分が手話をして、相手にも手話で答えを返してもらう。そういった形でのインタビューを進めることにしました。

その時に重要だと思ったのが、自分が読み取った手話が正しいのだという根拠。

修士論文の指導をしてくれた先生は、聴覚障害の専門ではありませんでした。そのため、インタビューの内容は、私が書き起こした逐語記録だけが頼り。内容の妥当性を確認する術は持ち合わせていませんでした。

 

協力してくれた人たちが話してくれたこと、これを私はきちんと読み取れていて、皆さんがしてきた体験をきちんと伝えられているのだという根拠、それを示すためには読み取りができる能力を持っていると示す必要がありました。

 

ただこれは指導の先生に言われたわけではありませんでした。ただの私の意地だったと思います。

修士論文を書きながら試験勉強。高校生以来の資格試験対策なんてものは何もありませんでした。

 

1年目は筆記試験はパスしたものの、実技試験で不合格。筆記試験のパスは翌年まで有効で、つまり今年度の試験でパスできなければ、来年度の試験ではまた筆記試験からやり直しでした。

 

とは言え、今年度は他に2つの資格試験があり、そちらは修了した大学院の評判にも関わるなかなかに重い試験でした。

それの勉強しながら、実技試験に向けても準備する。やった事はとにかく話をすると言うこと、ただそれだけでした。

 

その結果、今回の合格をもらうことができ、とてもうれしいと同時にとても不思議な気分です。今回の試験で、うまく表現できたのか?うまく読み取りできたのか?その自信がありません。

 

ただ、合格を喜んでくれる人がいて、その活躍を期待してくれている。そういった人たちがいてくれる自分である事は、自信にしていけると思います。

これからはその資格を持っている事を無駄にしないように、技術を維持向上しながら、具体的な活動をしていける、そういった存在になっていければと思っています。

 

応援してくれた人に報いること、必要としてくれる人に必要な情報が届けられること、必要としてくれる人が伝えたいことをきちんと伝えられること。

やるしかない!!!!

ウチとソトを考える

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とある研修会で宮城に来ています。

大学の同期が頑張って、でも自然体で運営していて、なんかその頼もしさに嬉しいような寂しいような。遠くなっちゃった感じに近い。

 

初めて会う人もたくさんいるんですが、いかんせん狭い業界なので、話を聞いていくと共通の知り合いが見つかることも多々あって。

 

そうなると、「この人、普段はどんな感じなんですか?」って聞かれることがあります。

 

きっと、ソトから見たらすごい人、魅力的な人に見えてるんだろうなぁ。

ウチではそうじゃない、という意味では決してなく(笑)。その印象はありつつ、そうではない面ももちろんあるので、その印象がその人をある種神格化しているような感じ。

 

ウチとソトで全く使い分けている、というわけではなく、ソトで抑えている面があるかどうかなんだろな、と思います(笑)

 

さて、研修会2日目。朝ごはん食べてきます。

2019年の漢字を考える

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明けましておめでとうございます。

2019年になりました。「平成最後の〜」にも拍車がかかっていくことでしょう。そんなに言わなくてもいいじゃない、という気持ちを持ちつつ、それを見ています。

 

 

さて、新年ということで、今年の目標を。

それは「重」です。

 

社会人1年目だった去年、引き継ぎの不十分さや私の至らなさで、仕事がうまく回せなかった反省がありました。

その反省の上に立って、仕事を進めて、自分ができることを重ねていく1年にしたいです。

これが、公的な理由。

 

私的な理由としては、楽しい思い出を重ねたい、の「重」です。

2018年、常に落ち着いていられたか、と言えばNo.です。ここでも書いてきたように気分の波があったことも多々。

それでも、やっぱり一緒にいる時がこの上なく楽しいんだなぁ。(しみじみ)

 

いい時も悪い時も、笑っても泣いても、一緒に居て、思い出を重ねていきたいです。

 

 

みなさんの2019年が輝かしいものになりますように。

そして、その何分の1でもいいので、私の2019年も輝きますように。

ちょっといいコーヒーを飲んで考える

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自然光のカフェでひとやすみ

ぱくたそ-フリー素材・無料写真ダウンロードからお借りしました。

 

先日、ちょっといいコーヒーを買ってみました。 

さっそく今朝、仕事中に飲んでみたところ・・・うまい。

普段はインスタントを飲んでいますが、香りと余韻が段違い。いつもなら、温度の低下とともに飲みたい気持ちも冷めますが、これは冷めても香りと余韻が変わらない。飲んだあと、口内に残った香りを無意識に探している自分がいます。そして、見つかるんです、これが。

 

こんなに興奮していますが、1杯あたりの値段は30.8円ほど。それでも、私にとっては「ちょっといいコーヒー」なのです。前にファーストフード店で頼んだコーヒーは、あまりにコンディションが悪く(?)、まだ温かかったのに、1/4くらい飲んだところでお別れしました。

それに比べたら、30.8円で冷めても満足できるなんて、なんてコスパのいいコーヒーなんだろう。

 

つまり、なにが「いい」のかってことに、絶対的な指標はないと思うのです。

特に感覚については、それが顕著な気がします。

美味しいとか心地よいとかの感覚って個人の好みとか、それまで体験してきたものの違いとかによって、良し悪しが大きく分かれるんだろうって思います。あまりに体験してきたものと違う時には、「異質」って捉えてしまうこともあるだろうし、そのさじ加減は自分の意思で調整できるものでもなさそうな気がします。

 

自分と相手の好みが違うときには、「体験してきた素地が違うのかも」と思ってみませんか?そうすれば、少しゆったり構えていられる気がしています。

 

生産性をゲームから考える

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任天堂スイッチが欲しくてたまらない。

大乱闘スマッシュブラザーズがやりたすぎる。

 

私のゲーム歴はとても浅い。

テレビゲームはスーパーファミコンしかやったことがないし、ソフトも4つか5つくらいしか持っていない。ゲームを欲しがらないので、友達との話題についていけないのではないかと心配した母親が、プレイステーションを買ってはどうかと提案してきたほどだ。

ポータブルゲームはゲームボーイを持っていた。画面はモノクロ、本体は分厚いやつだ。

持っていたソフトはポケットモンスターのグリーン。周りはレッドばかり持っていた。

あの頃はポケモンを交換した時、もらったポケモンの名前を変えられなかった。

ある日、友達からポケモン交換を提案された。了承してゲームボーイ同士をコードでつなぎ、友達からもらったポケモンイワークだった。名前を見て愕然とした。私の本名が登録されていた。もう変えられない。。。

それが理由ではないがゲームボーイも続かなかった。その次に買ったのは、ワンダースワンというポータブルゲームだった。この名前、友達に言ってもなかなか通じないのだけれど、マイナーなゲーム機だったのだろうか。

カードキャプターさくらのソフトを買い、何とかやり切った記憶がある。

 

それが中学生の頃。それ以降、ゲーム機を欲しがることはなく、生活してきた。

 

そんな私が今、任天堂スイッチが欲しくてたまらない。仕事がある程度落ち着いて、余裕がある時間が増えたこともある。それと同時に、自分の時間を非生産的に過ごしてみたいという気持ちもあるからだ。

ゲームをする時間はきっと生産性がない。

だけど、ゲームをしたことでリフレッシュされれば、次の日の仕事や行動が少しクリエイティブになるかもしれない、と約15年ぶりのゲームに少なからず期待している。

 

生産性の有無が世の中の話題になって少しの時間が過ぎた。

 

生産してなんぼ、という価値観は「生産」をどのように定義しているかによると思っている。その人が直接生産しなくても、誰かの生産を促進することもあるだろう。そういったことも「生産」と考えていいんではないかと思う。

 

目に見える結果だけを求められては、きっと誰もがしんどい。

 

多様性を謳う社会を作っていくなら、「生産」のあり方だって多様でいいんじゃないか、と思う。